ジャック・ダグラス #2 / ジョン・レノンとの不思議な縁


主にエアロスミスやチープ・トリックのプロデューサーとして知られるジャック・ダグラス。


実は、彼はジョン・レノン生前最後のアルバム「ダブル・ファンタジー」の共同プロデューサーでもありました。



ジョン・レノンとのただならぬ縁がどのように出来上がっていったのか、彼のビートルズに捧げた青春と共にご紹介したいと思います。


今回の箇所では、インタビュアーの方が一人でそのエピソードを語ってくれています。



*今回の記事は、この動画と別のソースとなる記事も参照・捕捉しつつまとめてあります。



片道切符でリヴァプール


6:50


I: ジャックが歩んできた経歴というのは非常に面白いもので、彼はこれまでにもどうやってこの業界への足掛かりを掴んだか色々と話してくれています。


60年代に若いミュージシャンだった彼は、当時の世界中の若者と同様、ビートルズに夢中でした。



1965年の11月、彼とバンドメイトの二人は、自分達の憧れの地であるリヴァプールに向かうことを決意します。


目的はもちろん、ビートルズに出会うため、そして向こうで自分達のライブを披露し、ブレイクを果たすためです。



当時の一番安い渡航方法と言えば、海路の不定期貨物船。片道切符を持った彼らは、その船に乗った唯一の乗客でした。


出発から約三週間後、彼らはギターとアンプ、それに小さなスーツケースだけで、遂にリヴァプールに到着します。



もちろん、彼らは就労ビザやいかなる許可証も持っていませんでしたから、到着後すぐに入国審査官によって入国を拒否され、船内で拘束されてしまいました。



新聞で拡散



ところが、ある夜、船員の一人が街のバーに行き、酔っぱらいながらその話を地元紙の記者に話してしまいます。



その記者が上司である編集長に報告し、「二人の若いアメリカ人が船内で拘束されている」とセンセーショナルに記事に書いたことで、この話が一気に世間に拡散。


市民からは批判の声も挙がった結果、当局は彼らに学生ビザを発行することになり、ジャックとバンドメイトの二人はリヴァプールへの上陸を果たします。



ビートルズの拠点だった Cavern Club を訪れたり、レコードを買ったり…。


しかし、その頃にはビートルズは既にブレイクを果たしてロンドンに移住していたため、彼らに会うことは叶いませんでした。


(*しかも、発行されたのはあくまで学生ビザだったにもかかわらず、あちこちで地元のバンドと一緒にプレイしていたことがバレて、結局アメリカに送還…笑)



この一件で「クレイジーなアメリカ人」として、イギリス中に悪名を轟かせた二人。


皮肉なことに、新作を発売したビートルズと新聞の一面を分けあうことになりました。



1971年 NYC にて


8:45


I: そこから数年後の1971年、NYのレコード・プラント・スタジオ。


当時、ジャック・ダグラスはそのスタジオの若手スタッフとして働いており、ある部屋でテープの編集・管理などを担当していました。


ある日、ドアをノックして彼の部屋に入ってきたのは、なんと当時同じスタジオで “Imagine” の制作を行っていたジョン・レノンその人でした。



(*ジョンはジャックにしばらくその部屋にいても良いか?とたずねたので、「もちろん」とだけ答え、緊張のあまり彼を直視できなかったそうです・笑


ジャックが想像するに、当時既に奇行が目立ち始めていたプロデューサー、フィル・スペクターから逃げるためだったのでは?とのこと)



全てが繋がった瞬間



何とも言えない空気のまま10~15分が経過した頃、ジャックはジョンに「実は、僕リヴァプールに行ったことがあるんです」と切り出します。


するとジョンは「リヴァプールの連中は皆こっち(アメリカ)に来たがるのに。なぜ向こうに?」



ジャックが1965年に例の入国拒否をされた話をし始めると、話が半分に差し掛かる前にジョンは大笑いし始め、「何だって!?キミがあのイカれたアメリカ人の一人なのか!?」と。


その当時、ビートルズはロンドンに住んでいたものの、地元への恋しさからリヴァプールの新聞を日々読んで、地元で何が起きているかをチェックしていたのです。



もちろん、ジョンはそのジャックが拘束された話も読んで覚えていたので、彼はジャックのことを面白いヤツだとすぐに気に入り、 セッションに参加させることになるのです。


終/