B.ウィットフォード (Aerosmith) × J.ボナマッサ #1


「無口なエアロスミス」ことブラッド・ウィットフォードが、「お喋りブルーズマン」(笑)ことジョー・ボナマッサのYouTube番組にインタビューで出演。


なかなか面白い話を聞くことが出来ましたので、抜粋でご紹介していきたいと思います。



2年前ぐらいのインタビューでは、あまり精神状態が良くなさそうな話ぶりだったブラッドですが、今回のインタビューでは気心の知れたギタリスト仲間だからでしょうか、結構明るくて安心しました。


J: ジョー

B: ブラッド


エアロ第二の故郷とは?


11:10


J: エアロは、いつ頃・どうやってローカルバンドから全国的な知名度に?


(↓初期のMama Kin、このイントロは…汗)


B: 最初は地元の一部の人達だけが知る存在だった。


ファーストアルバムが発売されて、最初に売れた4万枚はほぼ全て(地元ボストン周辺の)ニューイングランド地方でのものだったよ。


他の地域の人達は、僕らのことなんて全く知らなかった。


で、レコード会社は「このバンドはダメだ、売れないな」と思ったみたいなんだけど、マネージャーはオレ達をバンに乗せ、とにかくライブを周らせた。


そして、オレ達がデトロイトに行った時、あの街はオレ達を受け入れてくれたんだ。



何と言ってもあそこは「ハードロック・タウン」だったからね。まるでオレ達にとって「第二のホーム」みたいになったんだよ。


KISSとも一緒にプレイしたし、ミッドウェストは今でも僕にとっては第二のホームみたいに感じるよ。



ブラッドから見たKISS


12:37


J: エアロはいつでも「労働者の町の労働者のロック」でしたよね。


Grand FunkやCheap Trick、Alice CooperにKISS…



KISSはメイクをしてもう少しグラマラスな感じでしたけれど、こういったバンド達は労働者階級の目に魅力的に映っていました。


あなた方も含め、皆「本質的なロックンロール」をプレイしていましたもんね。


B: 確かにそうだったね。


KISS に関して言うと、エアロが初めて彼らと一緒にプレイしたのはニュージャージーでのコンサートだった。



最初、僕は楽屋にいたんだけど、めちゃくちゃ盛り上がってるのが聴こえて、ステージの方を見に行ったんだ。


すると、彼らは既にああいうショーアップされたコンセプトでステージを展開していて、僕は「こんなのズルい!」と思ったよ。


パワフルなロックソングをプレイしていただけでなく、ああいう日本の演劇文化(*歌舞伎)からヒントを得たようなことを加えていたからね。


同時に「一体どうやったらこんなことが出来るんだ!?」と感じたよ。とても効果的でクールだった。



Toys In The Attic 時代


14:10


J: “Toys In The Attic” を制作していた頃、あなた方はあのアルバムが特別なものになると思っていましたか?



B: いいや、そんなこと思ってなかったよ。


僕らは(プロデューサーの)ジャック・ダグラスとある程度の目標を決め、来る日も来る日もたくさんソングライティングやリハをやったんだ。


そうして楽曲が形になり、楽器隊のオケが完成して曲数が揃ってきても、今度は歌詞がまだ出来てないということも多かったしね。


当時、どう思っていたかはっきりとは思い出せないけど、僕ら自身があのアルバムの影響力を理解していたとは思わないかな。



でも、あの頃のレコーディングはほんとに楽しかったよ。


当時、僕らは16トラックとかで録ってたから、(制限があるので)どの楽器の音をどこに録っていくかをすごく考えなきゃいけなかった。


ここにGtソロが入って、こっちにはシェイカー、タンバリン…みたいにね。アレはまさに「アート」だったよ。


ミックスだって、エンジニア4人ぐらいがミキサーの前に張り付いて手動でフェーダーを動かしてやってたからね。



でも、今なんて頭の中で曲を思いついた段階で、もはや半分完成してるようなもんだろ?(笑)


J: そうですね、ピッチや音の修正も出来ますし、先日この番組で話した友人が話していましたが、今では音楽制作ソフトにギターのコードがプリセットされていて、それを使えばギタリストがいなくてもギタートラックが作れるそうです。


僕らには考えられないアプローチですよね。


続く…



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