B. ジョンソン(AC/DC) × J.エリオット (Def Leppard) #1


AC/DC のフロントマン、ブライアン・ジョンソンが様々なミュージシャンをゲストに迎えて制作された番組、Life on the Road。



今回は、Def Leppard のVo.ジョー・エリオットが出演した際の動画を要訳しながらご紹介したいと思います。


今回の主なテーマは「初ライブで学んだこと」「忘れられないレコード契約日」です。



途中ブライアンの声で入るナレーションは”N”で紹介します。


B: ブライアン

J: ジョー

N: ナレーション部



なぜダブリン⁉


1:45


アイルランド・ダブリンのパブ前で待ち合わせたお二人。「ギネス」のサイン前でハグ!


(*なぜダブリン?と思ったら、ジョーは長年ダブリンに住んでるんですね!知りませんでした!)



B: (こんな賑やかな通りを歩いて)騒がれたりしないの?


J: ああ、ここはそんな厄介な通りじゃないよ。僕のサイドプロジェクト “Down N’ Outz” のMVを撮影したのは、まさにこの通りなんだ。


B: あのバーから追い出されるやつ?(↓参照)



J: そうそう、向こうにあるバーから追い出されたんだよ。


B: あの演技、まるで酔っぱらってるかのような上手さだったよ。


J: まぁ、ちょっとばかりね!(酔っぱらった感じで・笑)



オレ達にも出来る!


4:25


B: 人生初のライブって学校でやっただろ?


J: そうだね、ウェストフィールドスクールという学校だった。



僕らは1977年の夏に結成したんだけど、当時は皆17~8歳だったな。スプーン工場のスペースを一週間当たり5ポンドで借りて、9か月間毎日練習したよ。


(4:47~辺りで流れる映像、まさに昔のイギリス!という街並みです)


N: 当時ジョーにとっての音楽的ヒーローは、Mott The Hoople / Queen / T-Rexなどで、それがDef Leppard の目指すサウンドになりました。



しかし、Def Leppard に「自分達もステージに立ってライブが出来るはずだ!」と思わせたのは、(当時シーンを席巻していた)「パンクロックの度胸」でした。


J: あの頃、パンクバンドが音楽にものすごいエネルギーを持ち込んでいるのを見たんだ。彼らの演奏は決して上手くなかったけれど、そんなことは問題じゃなかったんだよ。



Sex Pistols, The Clash, The Damned…僕らはそういったバンドよりもう少し上手くプレイ出来たから、「オレ達にだって出来るはずだ!」って言い聞かせたよ。


初ライブで学んだこと


5:30



で、僕らは友人を通じてウェストフィールド・スクールでのライブをブッキングした。


でも、すごく緊張してたから、バスドラの中にビールを隠し入れて持ち込んで、それを皆で飲んでからステージに立ったんだ。


いざ演奏を始めてみると、学生たちは会場の壁沿いに立って、僕らの曲には興味を示さなかった。


僕らの友人がサクラでアンコールをやってくれたんだけど、それに応えて僕らはThin Lizzyの “Jailbreak” をプレイしたんだ。



すると、さっきまで離れたところから見てたキッズ達がいきなりステージ前に集まって、急にノリだしたんだ。


あれは僕らにとって「そうか、もっとこういう曲を書かなきゃいけないんだ」という「気付きの瞬間」だったね。



忘れ得ぬレコード契約日


6:55


J: (Def Leppardが自主製作盤を出した)1979年というと、昔あったようなロックのクラブは全部閉店して、ディスコになっていた時期だ。


そして、パンクムーブメントの後、また少しずつバンドが戻りつつあった。SaxsonやIron Maiden、いわゆるNWOBHMのバンド達がクラブでプレイしていたよ。



N: そして、NWOBHMムーブメントのバンドの一つと思われていたDef Leppardは、1979年の夏、フォノグラムと契約。


J: 僕らがレコード契約を交わした日は、僕らがネブワースでLed Zeppelin のライブを見た翌日だった。


僕らは1979年8月4日・土曜日に彼らのコンサートを見たんだけど、その前日にニューカッスルメイフェアーで自分達のライブをやっていたんだ。



ライブの後に車でネブワースに直行し、会場が開くまで車内で仮眠。


ライブを見た後はまた車を運転して家に戻り、8月5日の日曜日、リック・アレンの実家のキッチンで僕らは契約書にサインしたんだ。


当時、リックはまだ15歳だったから、彼の親が署名する必要があったんだ。



続く…